当山縁起

月海上人げっかいしょうにん再興


天保新改攝州大阪全圖

当山の縁起は、寺伝によると九条関白創建との事だが、徳川初期の兵火により寺史などが焼失し詳細は不明である。後に江戸時代中期の安永年間(1772~81年)に月海上人が再興される。上人は「摂津八十八ヶ所霊場めぐり」の開祖でもあり、とても徳が高く辻説法されるとたちまち数百人の人々が集まったという。毎月21日には多数の信者を引き連れて大師巡りを行った。

観音寺は当初「観音院」と称し、場所も15番札所「圓珠庵」の前、現在高津中学校がある場所にあったが戦災を受け諸堂宇が全焼、その後の区画整理のため現在地に移転を余儀なくされた。「観音院」は1923年(大正12年)高津神社の神宮寺であった「観音院」と「智光院」が一緒になりつけられたもので1952年(昭和27年)現在地(高津高校の前)に移されたとき、名称も「観音寺」と改められた。
[参考資料]『摂津国八十八ヶ所霊場案内記』 古寺顕彰会発行

摂津国八十八箇所せっつこくはちじゅうはちかしょ

 江戸時代中期安永年間・1772年~1781年)に、四国八十八箇所霊場に擬して、真田山観智院(第16番札所・観音寺)の月海上人により開かれたとされる摂津国(大阪府北部と兵庫県の一部)にある八十八箇所の霊場。江戸時代には、熱心な大師信仰に支えられて殷賑を極めたと伝えられるが、明治の廃仏毀釈、大阪大空襲による被災などで多くの寺院が灰燼に帰すなど、不幸な戦中戦後の荒廃を経て、六大院(第14番札所)前住職・小原孝澄大僧正の積年の念願が実を結び、ようやく昭和55年1月、全札所寺院の結集がなり、霊場再興が成し遂げられた。
(参考図書:「摂津国八十八所巡礼」摂津国八十八所霊場会編、朱鷺書房発行

月海上人墓碑
月海上人墓碑

現在の観音寺


観音寺外観

寺院は戦火に幾度も遭い伽藍諸堂を失い、明治の廃仏毀釈などにより移転、地所の閉塞とたくさんのものを失いましたが、月海上人が真田山観智院として再興された後、歴代住職達がその法灯を守り上人の教えは伝承され続けてきました。

現在、観音寺は第六十二世住職 青山 快玄により”人々に開かれた寺院には何が必要か”という観点から山門を取り払い、伽藍はユニバーサルデザインに配慮したビル形式に、室内型納骨堂などが設置され堂内は明るく開放された空間になりました。
誰もが訪れやすい環境と必要とされる仏事ごとをすべて執り行うことのできる施設、また設備だけでなく来寺される方の不安や悩みを少しでも解消できるよう、安息の場所となるように日々尽力しています。